
ハワイ火山国立公園のサニーサイド
パハラは、ハワイ州のなかでも最大の広さを誇るカウ地区の中心に位置している。その面積は、オアフ島が猶に収まるほど広大だ。カウ地区には、まったく人の住んでいない長い沿岸部とマウナ・ロア火山、そしてボルケーノ国立公園の大部分が存在するのである。
カウ地区の歴史
0-300年:最初のポリネシア人移住者たちが、カヌーでカ・ラエ(サウス・ポイント)あるいはプナルウの黒砂海岸に辿り着き、これらの地の地下水、豊富な魚資源と、狩猟に適した森林を発見する。
1200年:タヒチからポリネシア人移住者の第ニ陣が押し寄せ、最初の移住者を制圧する。
1779年:西洋人として初めてハワイを発見したジェームス・クック船長率いる一群が、安全な港を探してカウ沿岸部を航行。また、後にバウンティ号の船長となったウィリアム・ブライがこの時、飲料水を確保するために船員として上陸。
1782年:ハワイ島の絶対的な支配者であったカラニオオプウがカウで死去。それを受けて、覇権争いが勃発。
.1790年:カラニオオプウの息子であるケオウアがキラウエアのクレーター近く(現ボルケーノ国立公園内のカウ・デザート・トレイル付近)で野営した際に、火山が噴火。400人の兵士とその家族が熱さと火山灰、煙りによって死亡。現在もトレイルでは、溶岩の上に残された当時の足跡を見ることができる。
1791年:カメハメハがカワイハエ(ハワイ島北部)にヘイアウ(神殿)を完成。ケオウアに使者を派遣し、調停を呼び掛ける。だが、ケオウアの一行がカワイハエに近付いた際、カメハメハの配下の族長のひとりがケオウアを殺害。新しいヘイアウにその身体を捧げる。カウの跡継ぎが消えたことでカメハメハは立場を強化し、ハワイ島を統一することに成功した。
1792年:ヘンリー・オプカハイアがプナルウで誕生。彼が後にボストンを訪れたことが、アメリカ宣教師団の最初の派遣(1820年)につながった。その功績を讃えて建立された教会がプナルウ・ビーチ・パークを見下ろす場所に残っており、現在も日曜礼拝が行なわれている。
1823年:ハワイ語を話すウイリィアム・エリス師がカウの村民から歓迎される。エリスとその他のプロテスタント宣教師は、当時のカウの人口を5,000人から6,000人と推定。カウの住民はエリスをキラウエアのクレーターへ連れて行き、ハワイの伝説の女神、ペレの逸話を伝えた。噴火中の同火山を外国人として初めて訪れたエリスは、ハレマウマウ・クレーターの溶岩湖についても記録を残している。
1840年:カウ初の学校がプナルウの隣のニノレに開校。
1841年: ハワイ諸島で最も人里離れたカウでは、宣教師団の駐屯所ができるのも一番遅かった。フランス人のカソリック牧師であったマレカル師がワイオヒヌに移住。それに続き、バージニア州から長老派のジョン・D・パリス師もこの地に移り住んだ。
1848年:カメハメハ三世が「グレート・マヘレ(土地配分法)」を制定。外国人でも牧場や砂糖等のプランテーションを手掛けることが可能になった。
1853年:政府の当時の統計によると、カウの人口は2,210人で、30年前に比べて約半分に減少。探検家、貿易商、移住者らの運んできた病気が原因とされている。
1860年:カパパラ牧場が創設される。ハワイでも最も由緒あるこの牧場では現在、乗馬や保養の他、ロバを使った子供向けのキャンプを楽しむことができる。
1865年:当時のボルケーノ・ハウスは、家具すらもない、単なる茅葺き小屋だった。
1866年:マーク・トウェインがカウを訪れ、ワイオヒヌの町の道沿いにモンキーポッドの木を植える。トウェインはキラウエア火山への訪問についても文章を残し、有名小説家、ジャック・ロンドンとロバート・スティーブンソンもそれに続くことになった。捕鯨船船長であったセオフィラス・ブラウンがカフクを買い取り、牧場経営を始める。
1868年:マウナ・ロアの噴火に続き、史上最大の地震を観測。震度7.7の地震は大きな津波をもたらし、沿岸部の村々に甚大な被害をもたらした。ウッドバレーでは、多量の雨によって弛んだ地盤が土砂崩れを引き起こした。さらに、18マイル(32.4キロ)におよぶ地割れから溶岩が流出し、サウス・ポイントの北西の地点で海に流れ込んだ。この地割れと当時の溶岩は、11号線沿いのサウス・ポイント・ロード近くのカフク牧場で現在も見ることができる。
1868年:ハッチンソン社が最初の商業用砂糖農場をナアレフに設立。
1876年:米国との互恵条約によって自由貿易が認められ、「キングシュガー」と呼ばれる砂糖ブームが起こる。
1877年:ボルケーノ・ハウス・ホテルが完成。創業当時の建物は、今では国立公園内でボルケーノ・アート・センターとして機能しており、アートやクラフトの販売や、文化イベントの実施を年間を通じて行なっている。
1884年:この年のカウの人種別人口内訳は、中国人568人、ポルトガル人933人、その他の白人が116人、ハワイアンとその混血が1,543人だった。
1886年:日本政府とハワイ政府が、ハワイ諸島に官約移民を送ることに合意。1890年までに476
人の官約移民がカウに到着。
1878年:ハワイ・アグリカルチャー社がパハラ・プランテーションを設立。ホヌアポ埠頭が完成。
1879年:ホヌアポ湾砂糖工場操業開始。
1880年:カウで最初の線路が敷かれる。
1881年:ハワイアン・アグリカルチャー社が世界最大の砂糖工場を設立。これに匹敵するのはジャマイカの工場のみだった。
1890年: ハッチンソン社とハワイアン・アグリカルチャー社が他のプランテーションを吸収合併し、砂糖きびを運ぶための鉄道を敷設。だが、鉄道は1940年代初頭になると、トラックとトラクターにその座を明け渡すことになった。.
1906年:砂糖プランテーションでの労働を目的として、最初のフィリピン人労働者の一群がパハラに到着。ナアレフにも翌年到着する。1946年まで毎年、大規模な移民が続いた。
1910年:C・ブリューワー社が、ハッチンソン社の親会社であるW・G・アーウィン社を買収。
1912年:マサチューセッツ工科大学のトマス・A・ジャガー博士が、ハワイ火山観測所を設立。世界で最も活発な火山であるキラウエアが、世界に先駆けて常時観測されることになった。
1915年:米国大統領や世界の指導者に加え、軍関係者や非営利旅行団体等の宿泊施設として、キラウエア軍施設が設立される。
1916年:ボルケーノ国立公園が、米国議会の議決を経て、ハワイの国立公園の一部として設立される。1961年に現在の名称となった。
1922年:ハワイ初のゴルフ場として、ボルケーノ・ゴルフ・コースがオープン。
1940年:現ナアレフ劇場がハッチンソン・シュガー社によって建設される。現在では、博物館およびデジタル・メディア・センターとして機能中。
1942年:ホナウアプ波止場が閉鎖。埠頭の面影は、ウイティントン・ビーチ・パークで見ることができる。
1959年:ハワイがアメリカの州となる。
1960年:C・ブリューワー社がマウナ・ロア・マカデミアナッツ社を設立する。マカデミアナッツの生産量と加工量は世界最大。マカデミアナッツ農園はパハラに続く11号線と、ウッド・バレーに続く道沿いで見ることができる。
1960年:ロバート・ヒンドとヘブデン・ポーテウスがダレイコ牧場を設立。 1966年:カウにオレンジの木が植えられ、これが今や有名なカウ・ゴールド・オレンジの成功のきっかけとなる。
1972年:C・ブリューワー社とハワイアン・アグリカルチャー社が合併。カウ・シュガー社となる。
1973年:カウに生息し、ハワイの州鳥でもあるネネを含む、野生動植物を保護するための絶滅品種法が制定される。ハワイでは、絶滅の危機に瀕している動植物の数が他のどの州と比較しても多い。
1974年:キラウエアのカルデラとグレート・クラック(大いなる裂け目)の間の山の側面から、溶岩が流れ出す。
1974年:1902年に設立された日蓮宗の寺の敷地に、ウッドバレー寺院とレトリート・センターがオープン。1980年と1994年にはダライ・ラマが訪れ、何千人もの人々が集まった。
1979年:国立公園内でのヤギの放牧が禁止されたことにより、深刻な被害を受けていたカウの荒地に再び色が戻ることとなった。
1982年:キラウエアカルデラが24時間にわたって噴火。驚愕する3万人の観光客の目前で、火柱が50mの高さに立ち上り、その距離は1マイルにもおよんだ。煙りが未だに立ち上るクレーターを、現在も実際に歩くことができる。
1987年:測定中地震計と傾斜計、教育用展示物を揃えたジャガー博物館がボルケーノ国立公園内にオープン。ハワイ火山観測所は、世界でも有数の火山研究所として機能し続けている。 1993年:ハワイのクラフト、フラ、チャント、歌、音楽を催すキラウエア・カルチュラル・フェスティバルが、ボルケーノ国立公園の年間行事となる。
1993年:絶滅に瀕しているハワイの野鳥を守るために、ケアウホウ鳥類保護センターがカウに創設される。毎年クリスマスの時期にオープンハウスを開催し、学生等を招いて一般への啓蒙活動に努めている。
1996年:カウ・シュガー社が同年3月27日をもって最後の収穫を終えたことを受け、カウ・コーヒー農園がパハラの裏手の山までその規模を拡大。カウ・コーヒーの名前はこの頃から知られるようになり、地元経済の新たな期待の星となった。
1997年:ワイオヒヌでフラ&アート・カルチュラル・フェスティバルが開催される。これを機に、ダンス、音楽、チャント、ハワイアンクラフトの展示が毎年、レイバー・デイ(労働者の日)の週末に行なわれるようになった。真のアロハスピリットに基づくこのフェスティバルは、無料で楽しむことができる。
2000年:この年の洪水は峡谷を流れ下り、橋を壊し、美しい景観を流し去ってしまった。11号線のパハラ付近で、現在もこの光景を目にすることができる。
2001年:モンクアザラシがカウの沿岸でおよそ100年ぶりに子供を出産。絶滅の危機に瀕しているこうした動植物は、この地で次第に固体数を増やしている。
2001年:自然管理委員会の協力により、ハワイボルケーノ国立公園が米上院議会の承認を受け、サウス・ポイント・ロードの交差点からマウナ・ロア山頂までの土地と、ナアレフ、パハラ、カラパナの上に広がる11万7,000エーカーにおよぶ土地を新たに加えることとなる。
「カウの歴史」は、ハワイ・コミュニティ基金、ベスト.バイ基金、デ・ウィット・ワレ基金、ハワイ大学、全米4H委員会、コナ4H連合、ウエスト・ハワイ・ファミリー・サポートサービスの財政援助および支援のもと、カウの公立学校の生徒によって作成され、それをジュリア・ニールがボランティアで編集したものである。
より詳しい情報をご希望の方は、808-928-9811までお電話をおかけください。なお、ご予約はeメールで受け付けています。日本語は808-325-1948まで。
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